空につながるための家

本当にいいの?ニュータウン

重松清の「定年ゴジラ」を読みました。
泣かせるところは泣かせ、笑わせるところは笑わせ、映像的というのでしょうか、ドラマになったら配役はこの人で...と想像も楽しく、いつもの通りの重松ワールドだったのですが、読後考え込んでしまいました。

本当にニュータウンでの郊外生活でいいの?

主人公は山を切り開いたニュータウンの分譲地に家を建て、ローンを返しながら子育てや仕事に奮闘し、やっと定年退職してわが町を振り返る人たち。
歴史がない、文化がない、ちょっとした居酒屋や気の利いた文具店もない、本当にここが故郷になりうるのか。。

まさに私達が購入した土地のある地域と一緒!
ちょっと前まで狸や雉が住んでいた山林を切り開き(狸さん、雉さん、ゴメンナサイ)、今一斉に新しい家々が建っているところ。
駅前にはマクドナルドもスターバックスも都市銀行もない。
近くには大型ショッピングセンターやDIYショップがあるけれど、おおっと感動するものや、大事な人に贈りたいという商品があるわけでもない。
道が広くて、同じような広さの整形地が整然と並び、人が集まるうち自然に形成されていった坩堝的なおもしろさはない。

物語では、主人公達はこれまでの人生を肯定する過程のなかで自分達の町への愛を再確認し、御近所同士絆を深めてゆくのですが。。
私がこれからその境地までたどり着けるか、不安です。
なんにもない、白いキャンパスのような状態なので、皆がよい町にしようとがんばって何十年か経ったらきっとよい町になっているのでしょう。少なくとも何十年か分は。

先日千葉県のニュータウンに居を構える年配の女性の話を聞きました。
娘さんが出て行ったそうで、捨て台詞が、
「こんな田舎でも都会でもないところ、おもしろくもなんともない」
そうか、おもしろくもなんともないのか。
田舎のよさと都会のよさが両方味わえてよいと思っていたのですが。

夫の無線の趣味とモノを貯めこむ性質がなければ、都市部のマンションで、本は図書館で借り、食料品は24時間オープンのスーパーでこまめに買いと、いろんな機能を外に求めた便利で簡素な暮らしを求めたかもしれません。
新幹線に乗り車窓を見ているとき、東京に近づくにつれて、ゴチャゴチャと町並みが汚くなっていき、いろんなスタイル、いろんな色や素材の家々が、境界線ギリギリに建てられて、一生懸命土地の所有権を主張しているようなやかましさを感じます。
家とか、お墓とか、都市部ではまとめてしまったらいいのに。派手派手しくない町並みに溶け込むデザインの集合住宅に住み、余った土地は広い道路や公園やホール等にしたらもう少しすっきりするんじゃないだろうか、なんて乱暴なことを考えていました。
きっと一軒一軒のお宅を訪れる機会があれば、その家族の歴史や家への愛情に納得し、やかましいだなんて思ったことを申し訳なく思うのでしょうが。
でも、そのように土地への執着をなくし、都市部で縦に住まうことを考えたら、少なくとも前述の狸さんや雉さんのねぐらを奪うこともなかったわけで...。

ニュータウンでの生活が、都市の刺激を犠牲にしても余りあるものであることを願うと共に、都市を離れ、山を切り開いてまで戸建を求めたのだというある種の覚悟を持たなければ、と思いました。
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